今月の表紙 チルドレンシリーズ『チリ〜バルパライソ』 Photo:Hiroshi KOIKE
*このメールはインターネットに接続した状態でお読み下さい。



『音楽の情景または
レコード棚の記憶から』

ああ、アマリア・ロドリゲス



『チリシリーズ』
〜 家屋編 〜

小池博史ミュージックコレクションの中から選択した曲もしくはアーティストについてのエッセイ。 単なる音楽批評ではなく、情景をも喚起させる、演出家ならではの考察。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『音楽の情景またはレコード棚の記憶から』 vol.33

ああ、アマリア・ロドリゲス

 ポルトガルにはファドという音楽がある。
 ファドの歌姫と呼ばれたアマリア・ロドリゲス。世界的にはつとに有名なアマリアだが、日本ではあまり知られていない。僕もアマリアの名前は知っていたが、実際に聴きだしたのは、十年ちょっと前だ。
 十年前のあの日、クソ面白くないことがあって、気晴らしにと新宿のタワーレコードに出かけ、CDを物色していたのだ。思えば、レコード、そしてCDを店舗で買っていたのが懐かしい。最近では、時間がなくて出歩くこと、ブラブラ歩きすらできないような感じだし、物色することの面白さは重々承知しつつも、興味ある音をインターネットで買うだけで、それでも、聴けないほどの量になってしまっているのである。だからと言って、大量に聴いているわけじゃない。単純に買っても聴く時間が作れないような状況が続いているというだけのこと。

 あのとき、タワーレコードで出会ったのがアマリアの顔だった。ジャケットに惹かれた。つまり、顔に惹かれたのだ。初録音の頃の若かりしアマリアの寂しく、愁いに満ちたモノクロ写真をジャケットにしていたが、イングリッド・バーグマンの表情に似て、モノクロが似合い、モノクロであるがゆえの気品を醸し出して、ジッとこちらを見つめていた。僕はその顔の中に厳しさと何とも言えぬ懐かしさを見た気がして、ホッとしたのを記憶している。
 顔立ちに関して言えば、僕は本来、バーグマン的顔は好きではない。鼻が高く、いわゆる彫刻的な顔である。普通は美人顔と呼ばれるだろう。ゆるやかさを感じさせない顔はどうもいただけない。ただし、バーグマンの顔は、単なる彫刻的というだけではない。憂いと厳しさと気品と苦悩が同居しているので惹かれるのである。アマリアもそういう雰囲気を持っていた。
 アマリア・ロドリゲスのその、まだ若かりし頃の初々しいアルバムを購入し、聴きまくっていたら、次の作品の宣伝物打ち合わせのときに葛西薫さんが突然、「ところでアマリア・ロドリゲス、知ってますか?良いんですよ、昔からファンなんです。」と言い出され、突然、アマリアの話で話題が盛り上がったこともあった。脈絡なくアマリアのことが出て、互いに嬉しくなって喋りまくったものだった。

 彼女の細かいことは知らない。ポルトガルのファドの女王と呼ばれているらしいことだけである。アルバムも4枚しか持っていない。
 その歌をひと言で言い表すならば、哀切である。弱々しい哀感ではなく、たくましさを感じることのできる哀愁に満ちている。声は決して太い声ではないにもかかわらず、弱々しくない。かといって、明るい曲を歌っても明るさに流れされないで、哀切感をずっと漂わせ続けているような歌手である。明るさと悲しさと強さが一体となっているような歌を歌われれば、もうとろけるだけだ。まったくタイプは違うし、印象もまるで異なるが僕の中では、ダイナ・ワシントンにも共通の匂いを感じてしまうのである。ダイナは決して哀感が強く漂うようなタイプではないし、ファドどころかジャズ、いやジャズというよりはブラックミュージック。しかし、強い生命力の裏側に儚さを感じさせて、僕は大好きな歌手である。アマリアもダイナもうまい。が、うまい歌手ならナンボでもいる。同じ匂いを感じるのは、根本的な部分の深い透明感とでも言えばいいだろうか。これはどうにも説明しにくい。が、どちらも最終的にはスッキリとさせられる。爽やかと言っても良い。

 アマリア・ロドリゲスの生い立ちを調べたことはないので何とも言えないが、決して豊かな生活を子供時代に送ったとは思えない。と、書いて、ネットで調べてみたら、やはり貧しい子供時代を送ったらしい。細かい事は分からないが、こういう雰囲気、強さと悲しさと明るさが同居しているような歌手は、まず通常、低レベルの生活を幼少時には送ってきている。生活の辛さとたくましさが、どうしても歌に出てしまう。子供時代の記憶が彼女の歌には強く影響が出ているのだろうし、他者の目線が常に自分の内にしまい込まれていると言って良いと思う。

 他者の視線を引き受けるのは容易な事ではない。ビリー・ホリデイ、美空ひばり、エディット・ピアフ・・などなど、それら国民的歌手で子供の頃から恵まれた環境に生きた歌手がいないことを思うと、やはり人の生い立ちの不思議に気付く。歌は心とはよく言われるが、下に降りていける心なのだろう。それは体験なくしてはなかなか実感として表現できるものではない。歌は身体から滲み出る。あらゆる音楽はそうだと言えるが、その中でも歌ほどダイレクトなものはない。歌は心なのだ。
 そういう視点で聴いても、ただの一歌手として聴いてみても、アマリアは憂いつつも明るく、素晴らしい。それはビリーやひばりの歌声とは違った陽気さがある。ポルトガル、リスボンという街の持つ雰囲気なのだろうか?こういう歌を聴いていると、心はリスボンに飛ぶ。まだ行ったことがない街だから、いつか行きたいと強く感じる自分がいる。

 アマゾンを調べてみると、僕が持っているアルバムは一枚もなかった。だけど、持っている四枚、どれを聴いても素晴らしいアルバムだから外れはほとんどないのだろうと思う。少なくともベスト盤であれば「暗いはしけ」は必ず入っているだろう。是非、リスボンの街を思い浮かべてアマリアを聴いてみて欲しい。

 →TOPへ

小池博史撮り下ろしフォト作品より。
空間に対する独自の視点と鋭い反射神経で、瞬間を捉える才能を発揮。優れたスナップシューターと評価されている。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 







 →TOPへ

 チリシリーズ
〜 家屋編 〜
写真をクリックすると、大きなサイズで見られます。

最新情報のお知らせや、多様な仕事のあれこれを紹介。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

パパ・タラフマラ新作公演
4人が繰り広げる爆裂ダンス演劇作品

「Nobody,NO BODY」

「浦地、権造、メクラ、幸福」4人のとぼけた男たちの奇怪至極の白黒喜劇。
 
 おぼろげな記憶と共に、単にやってきて、なにかを待ち、なにかに待たれ、なにかが始まり、なにかが生まれそうで生まれず、強烈な息づかいだけが耳鳴りのように残る・・・。

 パパ・タラフマラ流「ゴドーを待ちながら」の新解釈作品です。
 
 予約はコチラ

【公演日程】2010年3月3日(水)〜9日(火) 全9公演
3月3日(水)19:30
3月4日(木)14:30☆/19:30
3月5日(金)19:30★
3月6日(土)14:30/19:30◎
3月7日(日)14:30◎
3月8日(月)19:30◎
3月9日(火)14:30

☆3/4 マチネ終了後、演出家・小池博史×ベケット研究者・岡室美奈子 氏のアフタートークを行います。
★3/5 ソワレ終了後、演出家・小池博史×文筆家・平井敏晴 氏のアフタートークを行います。
◎3/6ソワレ、7、8終了後、「小池博史の作品の作り方」レクチャーを行います。

【会場】ザ・スズナリ 
〒155-0031 世田谷区下北沢1-45-15 TEL.03-3469-0511

■作・演出・振付 小池博史 
■出演:池野拓哉 橋本礼 南波冴 横手祐樹

【料金】(全席自由席)
前売一般3,900円/学生・65歳以上3,500円/小学生1,500円/当日券 各券の500円増  
<当日券>開演時間の1時間前受付にて

【リピーターキャッシュバック】
「Nobody, NO BODY」公演期間中2回以上ご観劇のお客様で前回観劇時の半券を受付で提示して頂いた場合、その場で1500円をキャッシュバック致します。

「Nobody,NO BODY」公式サイト


→TOPへ


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

パパ・タラフマラ 公式サイト

小池博史 公式サイト
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
Copyright(C) 2010Hiroshi KOIKE,All Rights Reserved.
毎月10日発行
 ご意見、ご感想、ご質問をお寄せ下さい。 →ookubo@fule-yurara.com
お友達にすすめてみよう!  登録・解除 →こちら 
発行・H island編集 大久保有花