今月の表紙 アニマルシリーズ『沖縄のヤギ』 Photo:Hiroshi KOIKE
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『音楽の情景または
レコード棚の記憶から』

Jazzの日々



『沖縄シリーズ』
〜 祭り編 〜

小池博史ミュージックコレクションの中から選択した曲もしくはアーティストについてのエッセイ。 単なる音楽批評ではなく、情景をも喚起させる、演出家ならではの考察。

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『音楽の情景またはレコード棚の記憶から』 vol.34

Jazzの日々

 先日、荻窪の六次元というカフェで、トークショーを行った。パパ・タラフマラはどうやってできていったのか、成長してきたのか、そんな内容であったが、そのとき、トーク相手だった店長の中村さんから「ジャズ」を聴いてたんですよね、と言われて、改めて昔のことを思い出してしまった。特にカフェという場所柄、ジャズ喫茶についても尋ねられ、いろいろと懐かしい風景が僕の頭の中を瞬時に去来してしていった。

 今、ジャズ喫茶といってもあまりピンと来ない方が多いだろう。ジャズ喫茶全盛は全共闘の頃、'60年代、'70年代だと思う。ただ、ジャズ喫茶といっても変遷があったっようで、初期のジャズ喫茶は音楽喫茶からの流れで、ジャズだけではなく、西洋ポップス音楽全般、特にロック音楽を指していたのではないか?と思う。なぜなら、その頃の不良の典型と言われたのが、バンドを作ってジャズ喫茶通いをした、というような表現がときどき、その頃音楽活動を開始した人たちから出てくるからである。しかし、70年代に入るとジャズ喫茶はすでに一変していたと言っていいだろう。ジャズ喫茶は、基本的には、本格的なジャズ専門喫茶、バリバリにジャズを聴くためにだけに存在する喫茶店と化していたのである。特にジャズ専門の、マスターの好みを強烈に打ち出した店では、音楽を鳴らすための巨大スピーカーが店の奥に鎮座し、大音量を発しながら、客の誰もが黙々と、「会話禁止」と書かれた店内で身体を揺らしていたものであった。

 そうしたジャズ専門喫茶店は日本中に繁茂していた。僕が高校生の頃は、片田舎の故郷の町にさえ、三つもジャズ喫茶があった。それほどのジャズ喫茶ブームがあった。そのうちのひとつは今でもあるが、今はただのジャズを小音量で鳴らすスナックに変わってしまっている。マスターの顔つきも一変し、あのころの求道者的イメージは見る影もなく、ただの少々情けないオヤジでしかなくなって、時の推移を感じさせ、ダラリとしている。だから今ではとても悲しくて行けるものじゃなくなってしまった。

 高校生の頃は誰もカフェなんて言わなかった。みんなの口にのぼったのは「喫茶店」つまり「サテン」である。だから、そもそもサテンに行くことが高校生の分際ではそれなりにステータスがあって、格好よかった時代であった。それも純喫茶という名称がたいてい付いていたが、まだ純喫茶には不純な匂いがあって、不良少年や成りきれない中途半端な不良少年、少女たちは、みんな、なけなしの金を持って放課後に純喫茶を目指したのである。

 その中でもジャズ喫茶に、田舎町で高校生が通うのは特異だったし、わずかだがジャズの知識を持った生意気盛りの匂いプンプンで背伸びしまくった、こんな田舎少年は当時、周りには誰もいなかったのだから気分は良かった。
 すこしばかり先走っていた高校生が聴いていたのは、ロックであり、アメリカンフォークソング、そしてその影響を受けたジャパニーズフォークソングである。特にその頃、吉田拓郎が急に台頭しだし、小室等の六文銭、五つの赤い風船、高田渡、泉谷しげる、井上陽水・・・などなどがもてはやされだしていた。少し前には岡林信康が「山谷ブルース」などで人気を博してはいたが、どうにも僕は好きにはなれなかった。しみったれた叙情性がどうも生臭くて好きになれなかった。彼らの後で、登場してきた「かぐや姫」や「グレープ」・・・こういう人たちのフォークはまったく受け付けず、そのベタベタ感になんともいやあな感触を抱いていたのだった。

 ボブ・ディランに中学生の頃、いかれた。未だにディランは好きな音楽家だ。いつか、このエッセーでも書きたいと思っている。だから、フォークソングがイヤなのではない。アメリカのウディ・ガスリーだって嫌いじゃない。しかし、日本のフォークソングはなんともベタベタし、エキセントリックになり、しみったれ感でいっぱいなのか、と毛嫌いしていた。その一方で、しみったれた感じが強い歌謡曲はなかなか好きである。一概には括れないにせよ、歌謡曲は嫌いではないのだ。なぜか。歌謡曲には大衆の開き直りがあり、滑稽が裏に潜んでいるように感じて、ついクククッと笑ってしまう。その大衆的たくましさに笑いつつ、演歌のような歌でさえ聴けるのである。美空ひばりがいかにしかめツラして、悲し涙にくれて、「ひとり酒場で飲む酒は・・・」と歌っても、僕には奥に笑いが溢れているように感じられてならない。それが歌謡曲の太さだと感じてきている。しかしながら、フォークソングには、完璧に時代と寝た嫌らしさを感じていたのである。だから、好きになれなかったのだろうと思う。
 その点、ジャズはまるで違った。

 閑話休題。そんな環境の中で、ジャズ好きはなんとも格好良かった。ロック好きはたくさんいたがジャズ好きはいない。音楽のわかるヤツとみなされて鼻は高いが、孤独で、一人、ジャズ喫茶通いを行っていた。
 僕はとにかくジャズが聴きたかった。熱烈に、必死にジャズを聴きたかった。そしてなによりも、ジャズ喫茶は僕にとっては一種のびっくり箱みたいなもので、驚きの音楽はもちろん、さまざまな驚きに満ちた知識や、驚きの本、驚きの感触・・・そんな驚きがいっぱいで、ウキウキドキドキ、突然、ガキが大人世界に放り出されて、そこはニューヨークマンハッタン、ああ、ヴィレッジバンガード、ああ、ブルーノート・・・と、その日本の片田舎のジャズ喫茶は、瞬く間にニューヨークのジャズクラブへと変身し、熱狂の空間へと変わり続けたのだった。
 そんな中でスウィングジャーナルというジャズ雑誌に出会い、植草甚一のエッセーに出会い、ユリイカを訳もわからずに読み、詩に出会い、オーネット・コールマンやチャーリー・ミンガス、アルバートアイラー、ジョンコルトレーン、マイルス・デイビスたちと出会っていったのであった。

 僕のよく行ったジャズ喫茶はフラミンゴと言って、繁華街、飲み屋街のど真ん中にあった。フラミンゴは細いビルとビルの間の道をくぐり抜けるとあって、抜けるとそこにはドーンとアルティックのスピーカーがそびえ立ち、誰もほとんど語ることなく、身体を揺すり、ジャズ喫茶のマスターはいかにもジャズを知った風な姿で、70年安保の時、なにもできず、ただただテレビを見つめていた僕としてはとても格好良く映ったのだった。その中で、僕は一所懸命背伸びをし、なにが書かれているかわかりもしない現代詩手帖だのユリイカについつい手を伸ばし、それら本たちを読めば読むほど、自分の知らなさ加減にコンプレックスをますます募らせ、田舎町からの脱出を希求していった。次から次へとターンテーブルに載るレコードは僕を新しい世界へと連れだし、音楽の洪水の中であえぎながら、新しい世界を夢見た。そんな驚異と脅威と知識欲、将来への夢が渦巻いていた。そんな中で、高校生的純情さをもって、コルトレーンの熱狂について思考し、オーネットコールマンのジャズと現代音楽との相関関係から現代音楽に手を伸ばし、と、ますますのめり込んでいった。僕の高校時代は、ジャズの毎日だった。

 ジャズを中心に聴いていたというのは、ほぼ12〜3年間。15歳から27歳くらいまでだった。もちろん今でもジャズは聴くし、大好きである。しかし、音楽のジャンルはどうでも良いのである。特別ジャズへの意識もなくなっしまった。良い音楽なら何でもいい。

 だが、今、非常に懐かしく思いだす。あの当時の自分自身の熱について、である。ジャズへの一種、狂信的とも言えるほどの熱狂だった。それはコルトレーンの熱と一致していたのかもしれない、と思う。あの頃のフラストレーション、悶々とした思いはコルトレーンに触発された部分がなくはない。アルティックのスピーカーから流れ出たコルトレーンの叫びが僕の叫びと共震したのだった。熱狂的生こそが俺の生きる道だと強く思ったのだった。ガウディの写真集を見て、アントニオ・ガウディという建築家に憧れ、僕は建築家をやりながら、ジャズ評論をやろうと熱い希望を抱いたのがそのころのことだ。そのどちらも達成することができないまま、今に至っている。しかし、熱狂だけは果てることなく続いている。果てしなく続くことはあり得ないと思いつつも、熱狂に身を浸し続けたいと思っている。

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小池博史撮り下ろしフォト作品より。
空間に対する独自の視点と鋭い反射神経で、瞬間を捉える才能を発揮。優れたスナップシューターと評価されている。

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パパ・タラフマラ新作公演
4人が繰り広げる爆裂ダンス演劇作品

「Nobody,NO BODY」終演

 昨日で「Nobody,NO BODY」大好評のうちに幕を下ろしました。
 「浦地、権造、メクラ、幸福」4人のとぼけた男たちの、ダイナミックかつ繊細なダンスに圧倒された65分。舞台美術はきわめてシンプルに構成され、数少ない小道具と照明が効果的に、なんともいえない場の雰囲気を醸し出していました。

 







 

nobody,NO BODY関連パフォーマンス&イベント映像アーカイヴ


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パパ・タラフマラ 公式サイト

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発行・H island編集 大久保有花