今月の表紙 チルドレンシリーズ『バリ』 Photo:Hiroshi KOIKE
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『音楽の情景または
レコード棚の記憶から』

母のような歌声を聴く



『バリシリーズ』
〜 祭り編 〜

小池博史ミュージックコレクションの中から選択した曲もしくはアーティストについてのエッセイ。 単なる音楽批評ではなく、情景をも喚起させる、演出家ならではの考察。

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『音楽の情景またはレコード棚の記憶から』 vol.35

母のような歌声を聴く

 先日、とっても驚いたことがあった。
 知人が言う、今まで歌を聴いて良いと感じたり、自分で歌いたいと思ったことがない、と。ホントかな?そんな馬鹿な?嘘じゃねえの?と相当疑ってかかったし、そうしたら彼も意固地になってかどうかは知らぬが、まったくないと断言する。
 ふうむ。ちょっと考えてみよう。

 歌を歌うのが嫌いな人はいるだろう。音痴と言われ続け、歌うことに苦痛を覚えた人も多いと思う。だが、みんな歌が好きで、歌を歌うことが嫌いになってしまった人であっても、歌を聴くこと自体は好きに違いないと僕は思いこんできた。歌は、のどを震わせて出る声の表現であり、全身的な運動である。それは肉体の根元に位置する表現方法と言ってもいい。

 味覚でも、色彩の感じ取り方、造形感覚でも、時間感覚でも、結局、僕はすべからく少年時代から抜け出すことができないでいる。それほど少年の頃の記憶や身体の感覚は強烈なのだ。回り回って、そこに戻ってしまう。この感触があるからこそ、僕は作品作りに新しさを求めるし、求め続けられるのだろうと思う。なぜなら、どんなに新しいと感じる、自分が試みたことのない表現であっても、自分の原体験に照らし合わせれば、回答が出てくるからだ。僕は延々とそのようなサークルを拡大する作業を行っているのである。野に放たれたまま戻る場所がないような状態には置かれないということである。必ずや戻るべき巣があって、それが何かと言えば、子供の頃の風景であり、記憶の場所であると断言できる。

 そういう確信の元で歌の事を考えると、さらなる深い原体験と結びつく。つまり、母親の胎内で過ごした10ヶ月ほどの時間はなんであったのか?ということである。想像してみて欲しい。胎児は、受精卵となって後、延々と心臓音やさまざまな器官の音に囲まれ、暗闇の中でうごめき、生きている。心臓の定期的な音の波が途切れることなく、受精卵誕生の瞬間から鳴っているのである。加えて水の中のそれは全身に液体の音を感じて、揺れ、浮遊し、それら圧倒的音を感じ、リズムを感じ、母親の発する声の振動を感じ、歌を感じ、そうしてこの世への誕生の瞬間を迎えている。この劇的な時間は、明確な記憶として残っているわけがない。だが、身体の隅々にまで行き届いて、深く、暗い闇の中の原初的感覚として強烈に残っているはずなのである。だから、人はまず音ありき、なのだ。意識上にはなくとも、その音はアプリオリに存在するリズム、ハーモニーとなり、それを感じる身体を持っているのだろうと思う。

 このような身体をもった一個の人間というのは、なんと深い生き物だろうと感嘆してしまう。誰もが意識下に闇を抱え、リズムを抱え、宇宙を抱えていると感じるのだ。そして声とは、その原初にあった身体のバイブレーションから生まれ、もっとも肉感的な自分と一体化できやすい媒体であるはずと思いこんできたのだ。ゆえに、僕らは歌に感激する。声の表現に心を和ませる。

 だから、人間が歌を聴いて、何も感じない人などいないと断言できるとさえ思っている。もし、歌を聴いて何も感じないならば、それはわざと耳を塞いでいるとしか言いようがない。もしかすると、その原初性を保ち続けたいがゆえに、日常の音遮断を行っているという、なんとも痛ましい努力のたまものなのではないか、という疑いまで持つ。悲しいかな、現代の社会は耳を塞ぐこと、人との関係性を遮断すること、いろいろな防御線を張らなければ、生きていきにくい時代である。だから、歌を歌うことばかりではなく、聞くことすら、嫌になっても不思議ではない。

 10日ほど前まで北京で中国人ダンサーたちと小作品をワークショップ形式で作っていた。その稽古途中で皆に歌をリクエストしてみた。誰もが好きで、誰もが知っているという歌を歌って欲しい、と。何曲もまな板に乗っては消えていった。そして最終的に残ったのは、台湾人歌手で、もう亡くなってしまっているテレサ・テンの「路辺的野花不要採」という曲であった。もちろん同じ北京語で歌う「路辺的野花不要採」なのだが、そこに至る過程をずっと見ていて、本当に心動かされた。歌を歌う姿は誰もが子供だった。誰もが天使だった。歌を愛でる気持ちに溢れている。歌うとき、誰もが笑顔になり、男女掛け合いのパートでは、嬉々として相手に言葉を投げかけている。改めて人が歌を歌うとはこういうことだと思ったのだった。

 今、研究生たちのために作品を作っている。4月15日に行われるパパ・タラフマラ付属研究所(P.A.I.)の卒業公演のための作品で、僕は毎年、30分程度の新作を送り出している。タイトルは「スノーピグミー」。
 この作品のラストの音楽を考えていて、急に思い浮かんだのが、ギリシアのハリス・アレクシーウという歌手の「祈りをこめて」という歌だった。突然、耳元で鳴った。僕はパパ・タラフマラのほぼ全作品は作曲家に音楽を依頼してきたが、なかなか他の公演までは手が回らないので、ときどきありもの音楽を拝借するのである。しかし、音楽を聞きまくって選択するということはない。常に耳元で勝手に鳴る。この音楽だよ、と向こうからやってくる。今回は、場のイメージと真逆のストレートでコブシが回っている感触が欲しくて、ウーンと唸っていたら、やってきたのがハリスだった。ギリシアやトルコ、東欧の歌手たちには、まだまだ西洋的通俗性が通用しない、独特の節回し、ねちっこい歌声が残り、響かせてくれるから、このシーンにはもってこいだった。

 ハリス・アレクシーウの声は少しハスキーで、ぐっとくるよな愛情たっぷりの声を響かせたかと思うと、蛇が絡めとるようなコブシをつける。たまらなく、色っぽい。だが、単なる色気ではなく、そこに強い生命感が漂っている。健康的でありつつ、暗黒を感じさせるような声と言って良いだろうか。女性の、あるいは母親という存在の代表的な印象を言えば、こういう声になると言いたくなるような声である。
 
 ハリス・アレクシーウを最近はあまり聞くことがなくなっていた。しかし、改めてすばらしい歌手であることを発見し、ここのところ毎日、ハリスざんまい、ゆるやかなコブシ感覚に酔っている。
 4月15日、吉祥寺の吉祥寺シアターでマチネ、ソワレ公演を行っている。音楽を聴くだけでも可能なら是非。

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小池博史撮り下ろしフォト作品より。
空間に対する独自の視点と鋭い反射神経で、瞬間を捉える才能を発揮。優れたスナップシューターと評価されている。

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 バリシリーズ
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パパ・タラフマラ付属研究所(P.A.I.)
第15回卒業公演 「テキナノイズ」

 本番まであと一週間と、佳境に入った小池演出作品「スノーピグミー」の稽古場にお邪魔してきました。
 白雪姫をモチーフにした作品ですが、小池演出ゆえ、シニカルな側面もあり、楽しめます。
 














photo:編集部

 若くてパワー溢れる研究生の1年間の集大成のこの卒業公演は、3部構成で、それぞれがとても見ごたえあります。3部目は毎年とても感動するダンス作品です。夜は満席とのことですが、昼間ご都合が合えば、ぜひ観にいらして下さい。

卒業公演 「テキナノイズ」

日程:4月15日(木)
マチネ/14:30〜
ソワレ/18:30〜 (満席)
※開場は開演30分前
チケット料金:前売2500円 当日2700円(全席自由)

会場:吉祥寺シアター
〒180-0004
東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目33−22

チケットのご予約・お問い合わせ:P.A.I.事務局
Tel 03-3385-2066
E-mail pai@pappa-tara.com
※件名に「卒業公演チケット予約」とご記入ください。


内容:3部構成(上演時間1時間45分 途中休憩有り)
1部:研究生個人小作品
2部:小池博史新作 「スノーピグミー」
3部:ダンス作品 「ニッキ色のハル」

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パパ・タラフマラ 公式サイト

小池博史 公式サイト
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発行・H island編集 大久保有花