今月の表紙 生き物シリーズ『奄美大島のクモ』 Photo:Hiroshi KOIKE
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『音楽の情景または
レコード棚の記憶から』

売れる音楽、売れない音楽



『奄美大島シリーズ』
〜 廃墟編 〜

小池博史ミュージックコレクションの中から選択した曲もしくはアーティストについてのエッセイ。 単なる音楽批評ではなく、情景をも喚起させる、演出家ならではの考察。

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『音楽の情景またはレコード棚の記憶から』 vol.45

売れる音楽、売れない音楽

 僕の音楽体験歴は何度も書いてきているので、繰り返しになる部分も多いと思うが、ちょいとおつきあいのほどを。

 音楽を聴き続けて、飽きることがない。このままずうっと、飽きずに死ぬまで聴き続けるのだろう。若いときはロック好き、年を取ってクラシックが良いなんていうフウになってしまうこともなく、良い悪いに関しては面倒なほどやかましい、でも、ジャンルなんかはどうでも良いと、昔からなんにも変わらない。阿呆と思えるほど変わらない。クラシックの凄い演奏には仰天するが、そうでない演奏だって多々ある、いやスゲエ演奏の方が稀である。僕はブラームス好きではある。しかし、演奏が良くなければ聴けるわけがない。強烈でなければ聴く気は起きてこない。また、一曲だけ好きなんてアルバムもあるが、一曲だけのためになかなかアルバムは買えない。アルバムはトータルの時間を楽しみ、衝撃を受けるためにあるのである。音楽はアルバムとなった途端に全体で語る。全体で語れないようなアルバムはダメなんである。

 とは言え、音楽。人間はこんな面白いものを作り出して、と呆れることがある。その意味を考えてみることもあるが、結局は芸術全般がそうなんだけれど、生き物としての不完全さを補うためのものなんだろう、やっぱり不完全なヒトという存在は自然に身を任せることもできず、かといって強さもなく、一人では生きられず、人のぬくもりが欲しく、涙もろく、誰かに頼りたくなり、しかし、人がいれば、それはそれでうるさくも感じ、けれど、やっぱり寂しく、元気になりたく、一所懸命何かを生み出そうとしては気を紛らわし、生み出せないことがほとんどで、だから、考えずに済ます頭が欲しくなり、そうして音楽に身を任せ、激しく、たまにはゆるゆるとして息継ぎをしたいと思うのが人間なんである。なんとまあ、我が儘で、理不尽で、傲慢な人間、と音楽を聴きつつ考えてしまう。作っている方だって、正しい音楽家なんてあまり面白いもんじゃなく、しょうもない人間の方が音楽家として最高、という場合の方が多かったりする。

 翻って、パパ・タラフマラの面々。外に行くと、外部の人々が一様に口をそろえて言うのは「みんな、ホントにいい人で・・・」・・・・なんだが、やっぱりいい人ばっかりじゃあダメなんじゃないか?と思う。かといって、ダメな人間ばっかりでは組織は成り立たない。かといって、優等生ばっかりじゃ面白くない。バランスなんだなあと思うのである。でも、そんな優等生だって、何かを犠牲にして優等生になってしまっているわけで、ベロリと皮を剥けばやっぱりそれは生々しく、だから俺だけには刃を向ける。向けなければやっていられないのだろう。なんともしょうがない。そんな、しょうもない人間だからこそ、補い合えないと成りたたんのだろうなあ、と思えるのである。そのしょうもなさが多岐に渡っているのだから、ますます厄介で、そういう厄介な存在を一所懸命生きさせ、繋ぎ止め、活力源となる力が音楽にはあるのだなあ、としみじみと思う。
 
  音楽と言っても、売るための音楽も生きるための音楽もある。だが、今は金の世の中。人が買って聴き、それが金になるのだから、資本主義社会としては当然、売ることを目的とする。売れっ子になり、有名人である方が価値があると思っている人たちが圧倒的に多いし、金になって売る方は潤うのだから、売ることを至上命題として売るのである。音楽はメディアと結託して、複製可能な産業となって以来、スターを作り出し、売れる音楽を探って次々と世の中に送り出してきたのである。

 売れる音楽がつまらないか?いえいえ、大多数はそうだが、稀に非常に面白く、素晴らしい音楽も存在する。ビートルズがその典型例であろう。聴けば聴くほど味が出る。圧倒的に凄いと思うのは、その構成力で、基本はジョンレノン、ポールマッカートニーのバンドなんだろうが、これにジョージハリスンとリンゴスターがちょっとだけ作詞、作曲にも絡んで、豊かなバランスと構成力を持ったアルバムに仕上がっていったのがほとんどのビートルズアルバムなのだ。加えて、個々の曲が魅力に溢れているときているから、鬼に金棒、あれだけの大スターになってしまったのも納得せざるを得ない。
 ビートルズは4人組の人物構成、バランスが絶妙であった。少しハスキーで社会派のジョン、きれいな声で、かつメロディアスな曲を作るポール、茫洋とした感じのリンゴ、神経質そうなジョージ・・・よくぞまあ、これだけ雰囲気の違う4人がうまく合致したものだと思うほど、良い具合に案配されている。そのバランスによって成り立っていたビートルズは解散すると、当然のように各々が一色になっていき、それはそれで良かったけれど、ビートルズ時代の音楽には総合的に及ばない。なぜならビートルズは、錯綜と統制が同時に存在するというほとんど奇跡的な配合がなされていたからだ。そんなビートルズ。強く時代が味方した。時は1960年代。荒れる時代にあって、ビートルズは、新しいロックの波を作り出すと共にメロディアスであり、自由を歌い、恋を歌い、それでいてシュールであり、とまあ、実に時代に添って、当人たちは時代と寝る意識はなかっただろうが、見事に時代に融合し、寝ていった人物たちであった。だから、音楽は偶然であったにせよ、時代が追いかけ、更に強固なイコン的「自由」の存在として名声は異様なまでに高まっていった。これは偶然が作用した希有な例だ。

 しかし、多くはこんな偶然とは縁遠い。今は仕掛けられた音楽が売れるということになっている。テレビドラマとタイアップし、広告宣伝料を大きく掛け、マネジメント優先での音楽作りに精を出す。みんな、有名になることが一義とばかりにそろばんをはじくのである。この世の中は人気者が一番なんだ、と。それは良くわかる。だって、金がなかったらはじまんないんだ。金こそすべてじゃないが、金こそ我が命。テレビでも映画でも舞台だって、こぞって有名人なら客が入るとばかりに有名人を目指してアプローチを行う。だから、ますます有名人になりたいと思う人が増える。地道に、真摯に音楽に向かっていくというよりも、まずは有名人になりたいと思うのである。もちろんそうでない人たちも多いがみんな、貧乏に泣くことになる。

 けれど、貧乏と音楽の価値はまったく一致しない。有名性と音楽性は少ししか一致しない。多くは相当な開きがある。それはみんな、知っているだろう。本当に良い音楽は巷には存在している。けれど、その情報をどうやって得たらいいのか?ここが一番のネックである。偶然が作用する以外の方法は、自分たちで仕掛けていく、音楽事務所なりにアプローチを掛けるくらいなのだろうが、うまく行くとは限らない。

 最近、話題になったことだが、クミコという歌手が56歳で紅白初出場を果たしたというのがあった。紅白はそれなりのステータスを持つのだろう、歌手にとっては。これとて、多くの偶然が作用し、クミコはどん底からはい上がってのポジションを手に入れた、ということになっている。別にクミコの音楽に対してさほどの興味は持たないし、偶然、事務所に送付されてきたカセットテープを松本隆が聴いて次に繋がった等々の、偶然性の強いさまざまなエピソードに対して特別のコメントはないけれど、しかし、ここで偶然が作用する人とそうでない人の違いはなんだろうと思ってしまうのである。偶然が作用せずに、多くの素晴らしい音楽家たちは埋もれていってしまう。どんなに素晴らしくとも、それを持ち上げる人がいなければ埋もれていくのである。たぶん圧倒的に埋もれる人の方が多いかもしれない。見ている人は見ているモノですよ、という言葉はよく聞くが、ホントに見ているのだろうか?と思わざるを得ないことも多い。

 私にしても、有名音楽家に限らず、無名な音楽家たちとも多く仕事をする。しかし、彼らが劣っているから無名なのだとはとても思えない。素晴らしい才能を持っている音楽家たちなんである。しかし、そこで作用していくのは、ほんの少しの偶然性とある種の枠組みに収まるかどうか、といういわゆる保守性かもしれないと思うのである。あとは社交性、政治性という音楽とは関係のない才能の方が有効だったりする。
 保守の方が生きやすいに決まっている。だがそこで物議を醸し出すような先鋭的情報網はないものか、と考えてしまうのだ。今やメディアは更に単一化して憚るところがない。

 里国隆という奄美大島の乞食音楽家と言われた流しの歌い手がいた。この人の歌を聴くと、しばしば苦しくなり、全身が身震いすることもある。ビートルズと比べれば、比較にならないほどポップス性は薄い。けれど、地の底から振り絞っていくような迫力はビートルズなど吹き飛んでしまう。この人が乞食の生き方をして流して歩き、ビートルズが世界のビートルズとなり、金は流れ込むかの如く入ってくるというのはどうにも割が合わないと感じてしまう。
 けれど、それが資本主義の社会なのだ。たかが音楽、されど音楽、けれど音楽の多くは資本が絡むと薄っぺらくなりがちだ。薄っぺらさが重複していくと今の社会ができあがる。そうしてますます薄っぺらくなっていく。

 今や音楽もまた、視聴者の選択権が与えられていると言う。簡単に言えば、iPodなどで楽曲だけを購入し、アルバムは捨て去り、曲単位で購入が可能になってきたということだ。これは一見、良さそうに見えて、決して良いことではない。なぜなら、繰り返し聞く中で学ぶことの方がずっと多いからだ。一回聴いて良いと思うモノは耳障りが良く、飽きやすい傾向も強い。だが、アルバムを繰り返し聴いていくと、多くの発見が出てくる。それは学習するからである。人間の感覚とは表面的な感覚だけではなく、じっくりと奥深くを突いてくる、眠れる感覚もあるのである。僕はその感覚を愛おしく大事なモノだと思って止まない。

 音楽のアルバムは、一度ではなく、最低でも十回くらいは聴きたいと思う。眠れる感覚を見たい、感じ取りたいからだ。
 さて、今日は何を聴こうか?今は’TV on the Radio
’の音楽を聴きたい気分である。

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小池博史撮り下ろしフォト作品より。
空間に対する独自の視点と鋭い反射神経で、瞬間を捉える才能を発揮。優れたスナップシューターと評価されている。

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 奄美大島シリーズ
〜 廃墟編 〜
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パパ・タラフマラ『三人姉妹
国内ツアー 長崎公演

  世界30カ国、150ステージ以上で上演された「三人姉妹」。 兵庫につづき、長崎で公演します。
  成熟を重ね、さらに味わい深い作品になっています。最後のセリフがじんと心に響きます。

2011年2月17日(木)19:00開演(18:30開場)
■アルカスSASEBO イベントホール
■料金:自由席 一般2,000円 学生1,000円

■チケットご予約
チケットぴあ/0570-02-9999[Pコード:408-256]
ローソンチケット/0570-000-407(オペレーター対応)・0570-084-005[Lコード:84719]

■お問い合わせ先
アルカスSASEBO:0956-42-1111

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パパ・タラフマラ 公式サイト

小池博史 公式サイト
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発行・H island編集 大久保有花