今月の表紙 チルドレンシリーズ『田沢湖』 Photo:Hiroshi KOIKE
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『音楽の情景または
レコード棚の記憶から』

僕はずっと音楽を聴いてきた



『東北シリーズ』
〜 花編 〜

小池博史ミュージックコレクションの中から選択した曲もしくはアーティストについてのエッセイ。 単なる音楽批評ではなく、情景をも喚起させる、演出家ならではの考察。

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『音楽の情景またはレコード棚の記憶から』 vol.48

僕はずっと音楽を聴いてきた

 ずいぶん音楽について書いてきた。もうこの欄でも48回になるらしい。書いても書いても書ききれないほど音楽を聴いてきた。だから、このままずっと書き続けることは可能だが、そろそろ別の方向に舵を切りたいと思っている。

 昨夜、ラッパーの下町兄弟と話をしていて、驚いたことがあった。最近の若者たちは、ダウンロードして音楽を聴くから、物体としてのCDは持たないと いう。それどころか、CDで購入しても、邪魔になるからジャケットなどはすぐに捨ててしまうとのこと。音楽は音だから形のないもの。だから、ジャケットなど半端なものはいらないということなんだろうが、ずっと昔から音楽はジャケットと一体化していた私のような者には、それを簡単に捨てるという発想は間違っても出ない。昔、レコードジャケットデザインをグラフィックデザイナーたちはこぞってやりたがったものだった。これほど良い自身の表現はないからだ。30センチLPレコードだとそれなりに大きい。目立つ。格好良ければ、家の中でも飾りたくなった。だから、ジャケ買いと言って、ジャケットだけで中身を聴かずに買うこともよくあった。良い音楽だからジャケットが良いとは限らないが、ジャケットが良ければまず間違いなく良い音楽だった。だからジャケ買いは特殊な事じゃあなかったのだ。

 それがCDになってデザイン表現としては小さすぎて、魅力は半減以下になった。さらに今では、形がなくなって、音楽は音楽で勝負ということならいいが、今じゃ音楽自体、売れなくなってしまっていると聞く。コピー文化が蔓延しているのだとか。しかし、僕が聴きたくなるような音楽の多くはネットでダウンロードできないような音楽だから、それなりに売れている音楽がネットで売られることになる。つまり、売れる音楽が売らんがために安くネットで配信され、さらにそれがコピーされるから、ますます音楽が売れなくなる構造を作り出しているように思える。音楽業界は目先の利益を追いかけるために、自分たちで自分たちの首を絞めているのではないか。あくまでも想像なので、間違っていたら申し訳ない。でも、業界全体が目先主義で、結局、自分で自分の首を絞めているのは舞台芸術業界も一緒なんである。まったく一緒。

 聴き手の側に対して言いたいこともある。下町兄弟とも話したのだが、だんだん音が悪くなってきた。若者たちはまったく認識していないらしいが、LPレコードからCDになり、CDからMP3で配信されるようになると、がっくりと音が落ちる。いつの間にか、iPod&iPod付属のイヤホンで聴く音が、彼らにとってのスタンダードになっているとするなら、相当大きな劣化を当たり前としていることになる。耳自体の感度がかなり落ちてきていると思う。iPodの音は酷いが、iPod付属のイヤホンは最悪である。少なくともCDで聴いた方がいい。でないと、音が分からなくなる。

 さて、書きたかった話を書こう。
 レコードやCD棚を見渡すと、30年以上聴いていないレコードやCDがたっぷりある。たぶんこちらの方がずっと多い。レコードもCDもじっくりと聴いている時間が実はあまり取れないからだ。昨夜は30年ぶりにズートシムズのサックスが聴きたくなって「ズート」というアルバムを取り出し、それから25年ぶりくらいにキングクリムゾンの「太陽と戦慄」を聴いた。唸った。片方は、完全にハードバップのゴリゴリジャズだし、もう一方はプログレッシブロックと言われた音楽だが、そんなジャンルなどはどうでも良い。ドライブするものはいつになっても輝き続ける。そこで気分が良くなって、チックコリアの「ARC」を掛けた。これはチックが最高に輝いていた頃、つまり、サークルというグループを作っては素晴らしいリリシズムと前衛性をまき散らしていた時に制作したピアノトリオアルバムだから、悪いわけがない。そこでさらにチックの「Now he sings now he sobs」を、そしてチック、アンソニー・ブラクストン、バリー・アルトシュルによる三者の同等バンド、サークルの「German Concert」を掛ける。チック・コリアの生涯最高時のピアノがたっぷりだ。加えてアンソニーのアルトサックスがガンガン迫ってくる。僕自身が演奏者になったような気分。至福。

 音を出し、からだを揺らす。これが最も原初的な楽しみだったのだろうと思う。世界中、いろいろな場所で音楽を聴いてきたが、たった今、アメリカ南西部の高台で聴いた笛の音を思い出した。あの風に乗った音が遠くから響きわたって、ゆらりゆらりと悠久の時間を運んでくると、まったく見知らぬ土地が目の前に広がるような感じがして、今でも簡単に頭が瞬間移動してしまう。

 音楽、音、ともに強く身体的なものだ。音楽を前にすると、思考するよりも早く、からだが動いていたり、からだが反応してからだの奥底からなにかがやってきたりする。たとえばキングクリムゾンの「太陽と戦慄」。大昔、30年以上も前に聴いていたときの状況や情景とともに、感情的に蘇ってくるのは見たこともないような広大な大地の広がる風景だったりする。どうして、と言われても答えようがない。音の風景はどこかしら自分自身の記憶と重なって、その記憶の場を新しい風景へと塗り変えていく。それが楽しい。そしてそれが良い音楽ということになる。良い音楽は記憶を一カ所に留めない。常に流動を生み出す波動を作り出すのである。

 人はなぜ、音楽を聴きたくなるのだろう。人によってさまざまだろう。気持ちが良いから。刺激を与えられるから。暇だから。昔を思い出したいから。楽しいから。元気になるから。・・・まあ、いろいろな理由があると思う。僕の場合はどうだろうか?なんで聴くのだろう。もちろん上記の理由はほとんど当てはまる。そしてそれだけじゃもちろんない。自分の予想だにしない別の場所へ連れていってもらえるから。想像できない風景を現出させてくれるから。自分の原初的なエネルギーを補完してくれるから。体中の細胞が沸き立つ感触が得られるから・・・。

 イメージの広がりを音楽は間違いなくもたらしてくれる。ピアノ一音の輝き、サックスの音ひとつでどれほど、風景は広がることか。そして人の声。歌声はストレートに心に、脳に訴え掛けてくる。僕は音楽で救われたという感覚はほとんどないが、そういう感覚を持つ人がいても当然だろうと思う。たとえば、坂本九の「上を向いて歩こう」。もちろん中村八大の曲と永六輔の歌詞がいいのだが、それ以上に坂本九の、あの何とも寂しさを背負ったようなさわやかな高い声があってこその「上を向いて歩こう」であって、あの声がなかったら、この歌はここまで国民的な歌にはならなかっただろう。「見上げてごらん、空の星を・・・」と歌う坂本の顔は庶民的明るさと悲しみに彩られていて、彼が御巣鷹山に散った時、まっさきにあの歌を思い出したのだった。あの悲劇を全身で体言し、予言していたのではないかとさえ思ったのだった。声とはなんと凄い武器なのだろうと思うのである。人の心を溶かし、人の心を揺れ動かす。そんな歌手が世界中にはたくさんいるのである。聴いても聴いても聴ききれないくらいいるのである。アマリア・ロドリゲス、ハリス・アレクシーウ、フレウリー・ダントナキ、カルトーラ、ダイナ・ワシントン、ニーナ・シモン、テレサ・テン・・・。

 もちろん歌ばかりではない。音楽は世界中、どこへ行っても必ずある。ないところはない。アートだって、ないところはないのだから、芸術や音楽は人間である限り、なくてはならないものなのだと断定しても良いのである。音楽や芸術がなければ、人は人を保てないのだろう。

 ここで今、ギル・エバンスの「The Individualism of Gil Evans」を、そして「Out of the Cool」を聴く。なんとまあ素晴らしいのだろう。音の妙味を拾い出す最高のアレンジャーである。参加ミュージシャンは皆、ジャズミュージシャンだが、ノンジャンルであることがまた輝かしい。しかし、ノンジャンルとは言え、高いジャズテクニックを持っていなくてはギルの描く音世界は絶対にできまい。 35年くらい前に買ったLPレコードの音のふくよかさを味わい、ギルのオーケストレーションの妙を聴く。ライナーノーツを植草甚一が書いている。この人もなんとも飄々と生きた人だったが、ギル・エバンスもまったくそうだ。飄々だ。こちらの身も軽くなってくる気がする。

 音楽は生きる血のようなものだと、こういう音を聴くとしみじみと思うのである。リズムとハーモニーと不協和音で醸し出されるのだから。

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小池博史撮り下ろしフォト作品より。
空間に対する独自の視点と鋭い反射神経で、瞬間を捉える才能を発揮。優れたスナップシューターと評価されている。

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小池博史脚本作品
『森と夜と世界の果てへの旅』全国ツアー開始!

  ろう者と聴者の感性を活かし、人形劇の新しい可能性を追求し続ける「デフ・パペットシアター・ひとみ」の結成30周年記念作品『森と夜と世界の果てへの旅』の脚本を、小池博史が手掛けました。
 ナイジェリアの作家エイモス・チュツオーラ著「やし酒飲み」を原作に、魔術的で自由奔放な世界観を人形劇化。
  5月から九州・四国・沖縄など、巡回公演がはじまります。

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発行・H island編集 大久保有花