今月の表紙 生き物シリーズ『奄美大島のカラス』 Photo:Hiroshi KOIKE
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『音楽の情景または
レコード棚の記憶から』

僕はずっと音楽を聴いてきた(2)



『日本の風景シリーズ』
〜 水辺編 〜

小池博史ミュージックコレクションの中から選択した曲もしくはアーティストについてのエッセイ。 単なる音楽批評ではなく、情景をも喚起させる、演出家ならではの考察。

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『音楽の情景またはレコード棚の記憶から』 vol.49

僕はずっと音楽を聴いてきた(2)

 さて、音楽シリーズの最終回になってしまった。次回からは、別企画となる。いや、まだまだ書けるとは思っているし、ぜんぜん書いていない音楽も非常に多いわけだから、この先を書き続けることまったくはやぶさかではないのだが、少々、どうしても趣向を変えざるをえないことが起きてきた。この件に関しては、次回に詳しく書くとして、さて、最終回。

 最後だから音楽全般について書きたいと思った。けれど、僕はなにが好きなのか、改めて音楽についての文章を書いているうちに、やっぱり演出的な視点でとらえることができる音楽こそが一番興味が引かれ、好きな音楽の種類なのだと気づいたのであった。そうでない音楽だって大好きなのだが、最も前のめりに、こいつはスゴいなあと思って聴くのは、構造的に優れ、かつ、非常にスポンテイニアスな印象を持つことのできる音楽だろうということである。構造の高度さに自律性が加われば、きわめて高い音楽性を持つことになるが、しかし、そういう音楽が最も好まれるのか?といえば、そうではない。そんな高度なことは問われないというか、聴き手が欲していないと言った方がいいだろう。

 さて、どんな音楽家が最高に好きなのか?だが、列挙してみたい。
 チャールズミンガスマイルスデイビスギルエバンスソフィアグバイドゥリーナキングクリムゾンリゲティエリックドルフィーピンクフロイドピアソラグレングールドフルトヴェングラー・・・・などなど。もちろんこれ以外にも好きな音楽家はたくさんいる。いるけれど、たとえば、以上の音楽家は尊敬して止まないタイプの音楽家たちなのである。小粋だったり、愛して止まない音楽家たちやきわめて高度なテクニックを持った器楽奏者、あるいは独自性の強い音楽家たちはたくさんいる。いや、こっちの方がずっと多いだろう。そしてこの欄でもこうした愛すべき音楽家たちについて書き綴ってきたのである。音楽には‘愛すべき’‘キュートな’素敵さがあってしかるべきなのであって、その方が気楽に聴けるものだし、ホッとすることもできて気分はよい。僕の大好きな歌手であれば、ダイナワシントンニーナシモン、カンダンエルセティン、エルフィスカエシローリーアンダーソンカルトーラサリフケイタ・・・・とにかく、たくさんの女性歌手がいた。僕は俳優では男性の方が好きな俳優が多いけれど、なぜか歌手は女性の方を好む傾向がある。もちろんロック音楽になると女性歌手はいまいちで、男ばかりになる。ポップ、歌謡系だと男性にはいまいち魅力を感じない・・・と書いて、いや待てよ、アラブ音楽だと男性の方が良いかな。沖縄音楽は男の歌い手の方が好きか・・・などと逡巡するが、でも歌手は相対的に女性の方を多く好む。

 高度なテクニックとオリジナリティということならば、ホントに山ほどいる。たった今、聴いているPublic Image Limited なんて強烈なオリジナリティを漂わせて、かつ、僕の耳には至って心地よく聞こえている。あまり心地よいと感じる人はいないかも知れないが、このシンプルきわまりないリズムは癖になるし、浮き立つ。セロニアスモンクジャンゴラインハルトチャーリーパーカールーリードセシルテイラーコルトレーンマディウォターズU2クリフォードブラウントムウェイツ・・・・次から次へと出てきて、尽きることがないほどである。

 音楽ジャンルなど本来どうでも良いことだ。良い音楽と悪い音楽しかない、と誰だったか有名な音楽家が言っていたけれど、ジャンルに分けたがる聴き手と売り手によって、ジャンル化されてしまう。特に日本ではジャンル分けしないと売れないと以前、聞いたことがある。笑ってしまう。人々はジャンルに分けられた安心によって、商品を購入するわけだ。自分の耳を信じているわけではなく、他人によって分類されたジャンルで、他者によって推薦された音楽を購入して、聞き、そしていっぱしの批評を述べたがるわけである。まあ、分からなくもない。なぜなら、決して安い商品ではないから、易々とは購入できないという縛りがある。けれど、そこで購入者としては自主性が欲しいわけだから、自説を振りかざす。そんな人ばかりではないが、こんな輩が多いことも事実。こういう人たちにとっては、前段階にいる批評家などはとっても重要な指針の役割を果たしていく。そして自身がその批評家の言っていることを無意識のうちに代弁して広めていったりという役割を果たしていくのである。しかし、批評なんて信じてはいけない。これは長年、表現活動をやっていて心底感じることである。批評を書くためには、実は身体がなければならず、しかしながら、身体感覚に優れた人はなかなか批評家などやりたがらない。ではどういう人が批評家になりたがるか?身体不在の脳中心主義の人たちである。稀に、身体感覚に優れた、全感性的な人物もいるが、実に稀である。そういう頭デッカチ野郎が書いた文章などを本当は聴き手は見抜く必要があるのだが、聴き手は特に活字になったものをありがたがる傾向が強いからなかなか難しい。

 おっと、ずれてしまった。構造と自律性についてである。
 さて、構造を変えようとするとジャンルを意識せず、どこへでも突進していくことのできる包括性がなければならない。けれど、なかなか聴視者は付いては来ないからやっかいであるが、ポピュラーミュージックというアリバイさえ保つことができれば難なくやってのけられそうな気もする。しかし、ポップ、されどポップ。難しい。
 また、ちょっと脱線する。昔、書いたことがあるが、ライ・クーダーという大好きな音楽家がいるが、彼はもうずいぶん長いこと自分名義の音楽アルバムを出していない。ブエナビスタソーシャルクラブなどの音楽プロデュースをしたり、映画音楽をやったりしながら糊口を凌いでいるのだが、‘チキンスキンミュージック’のような素晴らしいアルバムを連発していた時期があった。けれど、それでは食えないそうなんである。僕はほとんどのアルバムを持っているし、どれもこれもレベルの高いアルバムで、かなり良質なポップ音楽家だと思っていたら、食えない・・・のだとか。確かにポップといっても、かなりボーダーライン上のポップではある。しかし、それにしても・・・。
 とまあ、ついついライのことを書いてしまったが、ライ・クーダー論を書きたいわけではない。とにかく、狭苦しいジャンルの枠で、楽しげにやっている音楽家にはあまり魅力を感じないのである。例えばジャズに分けられるが、チャールズミンガスの‘直立猿人’を聴いてみたまえ。これが1950年代の録音なのである。今から50年以上も前に、直立猿人がのっそりと立ち上がり、歩きだし、彷徨し、ほうこうし、じろじろと見渡し、怒り、戦い・・・これが、見えるように構造化され、音楽化されているのである。それでいて各人のソロパートは実に魅力に富んでいる。ジャッキーマクリーン、マルウォルドロンなどのソロは最高である。歩き、ホウコウし、崩れ、突然、一致団結する。僕がこのアルバムを最初に聴いたのは、今から35年も前のことだ。しかし、最初の印象とまったく変わらず、未だに輝き続けている‘直立猿人’。ミンガス!最高だ。
 同じように、ギル・エバンスとマイルスの‘スケッチオブスペイン’を聴いて、マイルスは前々からだが、ギルにはまった。ギルの音は、精妙きわまりない。その精妙さの中に非常にスポンテイニアスなソロが入り込んでくる。マイルスの音が輝き、同時にそれをギルがしっかりと支え込む。もちろんマイルス自身が、非常に高い構造性を感じさせる音楽家で、それは資質の問題だ。構築力を持った音楽家はソロをとっても、自身の音に流されてしまうことはない。きわめて高い抑制力を持っているといえるだろう。
 ジャズができる音楽家の方がスポンテイニアスな力を発揮する。しかし、ジャズ音楽家で高い構想力を持つアーティストは軽々とジャズの領域を超えていってしまう。さすれば、問題になるのはセールスの問題だ。ギルのようなきわめて高い能力を持った音楽家でさえ、越境することで、どうしてもセールスに結びつかないという問題があったようである。

 日本の舞台芸術界というのはきわめて保守的なところであり、最近のパパ・タラフマラの公演アンケートを分析してみると、実に驚くべきことがわかってきた。パパ・タラフマラを見に来る観客(とは言え、あくまでもアンケートを書いた観客に限るわけだが)の中の舞台芸術ファンというのはたったの20パーセントしかいない、ということだった。舞台芸術、音楽、映画、美術・・・これらがどれも20パーセントずつ。そして文学が10パーセント。いやはや、どうしたものか。まったく望んだ通りなのだが、最も難しいのはいかにして発信するかである。発信しにくいったらありゃしないのである。
 そして、音楽にしても、なかなあ構造性の高い音楽は売れない傾向がある。されど、音楽は、最高のドラマでもある。筋書きがあってもなくても、自身の頭の中で展開されるきわめて身体的なドラマとなる。チープなドラマではなく、深い感性に裏付けられた音の物語となっていくものほど、素晴らしい感動を与えてくれるはずだ。

 僕は一生、音楽とはつき合い続けるだろう。強烈な構築力を持った音楽だけは手放せない。

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小池博史撮り下ろしフォト作品より。
空間に対する独自の視点と鋭い反射神経で、瞬間を捉える才能を発揮。優れたスナップシューターと評価されている。

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発行・H island編集 大久保有花