今月の表紙 パパ・タラフマラ舞台写真シリーズ『Heart of GOLD〜百年の孤独〜』 Photo:Hiroshi KOIKE
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『30年間でパパ・タラフマラが関わった人々シリーズ』
パパ・タラフマラを作ってきた
音楽家たち



『パパ・タラフマラ舞台写真シリーズ』
Heart of GOLD〜百年の孤独〜

小池博史が語るパパ・タラフマラをめぐる人物論。

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30年間でパパ・タラフマラが関わった人々シリーズvol.2

パパ・タラフマラを作ってきた音楽家たち

 パパ・タラフマラ作品群のほとんどは新しく作曲された音楽で構成してきた。既成音楽を選択するのは、それはそれで楽しい。ただ、そこに丁々発止のやりとりがないため、避けてきた。つまり、これはどんな作家たちと行うときでも一緒なのだが、私はこんなフウにアイデアを提示するぞ、さあ、あなたはどう出る?というこのアイデアのやり取りが、言うに言われぬ快楽を生むのである。そこで生まれる化学変化とでも言ったらいいようなアイデアのすりあわせがあって、新しい曲が出来る。さあ、これを使うのか、それとも使えないのか?作曲されて出てきたモノが、イメージと大きく離れていてはまずいが、逆に当方のイメージを変えさせられる場合もある。こんなフウにして常に判断を迫られていくことになる。これは既成音楽には絶対にない楽しみなのだ。

 私は、音楽を舞台で使うという発想はあまり持っていない。音楽というよりは総合的な音。音というのはすべての音だから足音も息づかいも含まれる。もちろん声もことばも含まれる。その中で音楽をどうするかが問われていく。
 今まで数多くの音楽家と仕事をしてきた。つくづく良い音楽家たちと一緒に仕事ができたなあ、と思うのである。音楽家たちだけではなく、多くのスタッフについても言えるのだが、実に素晴らしいスタッフたちであった。
 パパ・タラフマラの最初にやっていた音楽家は和泉耕二さん。その後、菅谷昌弘、リュウ・ソーラ、レスリー・スタック、中川俊郎、キム・テークン、オノセイゲン、ポール・ドレッシャー、カール・ストーン、松本淳一、藤井健介、三枝伸太郎、ジョコ・ポロン、チョー・ウゾン・・・・と、実に多くの作曲家たちと関わってきた。
 どうしてこれら作曲家だったのですか?という質問を受けることがよくあるが、インスピレーションとしか言いようがない。ただ、作曲家では間違えたと思ったことは一度もない。そのくらいフィットした。こちらの意を汲んで最高の音楽をみなさん、制作してくれた。

 1982年に始めたときにはコンピューターを使える音楽家はほとんどいなかった。和泉さんの音楽はすべてピアノと声による音であったことを懐かしく思い出す。パパ・タラフマラの初期の4年間はかなりお世話になった。だが、ピアノだけでは限界があり、そこで、コンピューターを使える音楽ということで菅谷が入ってきた。彼のデモテープを聞いた時は、さてどうなんだろう?と思った。実はそういう作曲家の方が多いのである。上記の音楽家たちで言えば、菅谷、松本、藤井君あたりは、デモテープの段階では少々首を傾げた作曲家たちである。ただ、三人とも、それからしばらくして聴き直し、突然、面白いかも、と思って参加してもらった方々だ。

 菅谷の才能は輝いていた。彼とは、1987年〜2000年までピッタリとつき合ってきた。実際に制作した作品数はかなり多くの数に上る。だから、作品をひとつひとつ取り上げたりはしない。とにかくこの14年間のほぼすべてだ。当時、菅谷宅には公演前には二日に一回の割合で通ったものだった。稽古が終わるとバイクを飛ばして国立から荻窪の彼の家に行き、音楽を聴いてはああでもない、こうでもないと数時間、やりあった。そして深夜2時か3時頃に帰ってくる。とても良い時間を送ったと思っている。さほど忙しすぎず、ゆえにじっくりと音楽を作り出し、それを舞台上に反映させる。こういう実に贅沢な時間を作ることができた14年間であった。非常に繊細であり、かつ、破壊力も備わった音楽。このセンシティブな感じがなんとも言えず好きであったし、こういうじっくりと腰を据えた作り方ができた事は以降、まったくなくなっていった。

 リューソーラは北京国立音楽院出身、ニューヨークでは自分自身のジャズバンドを持ち、かつ、小説もヒットさせ、日本では翻訳まで出ていた才媛である。彼女の音を最初に聴いたのは、香港のズニというカンパニーに彼女自身が協力して作られた音だった。北京出身で、ニューヨークで活躍するという華々しさがある一方、文化大革命に直面して、親類の何人かは粛正を受けた過去を持っていた。私とは年齢も一緒だったから、同じ時間を生き、だが、まったく違うバックグラウンドを持った女性が、北京からニューヨークへと渡り、生を育んできた事に対しての強い興味を覚えた。彼女の音楽は、中国に吹く強い一陣の風のような印象だった。2001年の‘WD’では彼女をパフォーマーとしても呼んでいた。しかし、ワークインプログレス時には日本にいられたけれど、その数ヶ月後の二度目の来日は果たせなかった。ビザが降りなかったのである。彼女の代わりをマレーシアのダンサーが行い、彼は非常にうまかったけれど、彼女のような緊張感溢れる声ではなかった。ソーラには鬼気迫るものがあった。

 レスリー・スタックは、ウィリアムフォーサイスと長く一緒にやってきた男である。フランクフルトバレエでの初期フォーサイス作品は彼の作曲だ。彼とは3回、一緒に作品制作をしている。サンフランシスコで行った‘The Sound of Future SYNC.’、‘WD’第四章、それから‘未来の空隙は響き’である。どれも楽しかった。しかし、彼は自分の才能の限界を感じて、もはや作曲活動はしていないと言う。数年前にサンフランシスコで‘Ship in a View’公演をやったときに会ったのが最後だ。このとき、彼から何度か、‘フォーサイスよりおまえの方が素晴らしい’と言われたことが強く記憶に残る。なぜ?と聴くと、‘フォーサイスは結局、バレエだから’と言っていた。剽軽なアメリカンで、いろいろなところへ連れていってくれた。サンフランシスコ近郊ドライブを結構、しましたねえ、レスリーさん。また行きたいですねえ。

 中川俊郎さんは、もう出会いからして驚きだった。中川さんを紹介してくれたのは、葛西薫さん。2000年のことだ。中川さんのコンサートが横浜で開かれるというので、行ってみた。クラシック音楽を中心に自曲も弾くというコンサートだったと記憶しているが、音はもとより、そのたち振る舞いというか、クラシック音楽を奏でながら、ニタニタ笑っている姿に一気に引かれた。そこで即、楽屋に押し掛け、「中川さん、舞台に出ませんか?」と尋ねた私。すると何の説明もないのに、即刻「出ます」と言うではないか。そこで一年後の‘WD’に出てもらった。彼のプロフィールには未だに、‘WD’では女装して、トイピアノを弾いたということが誇らしげに出てくる。天才ではあるが、このような方はどうしても世間からは浮き上がるだろうと思うのである。‘WD’の稽古中、自分の出番はなくても、ほぼ朝から夜までいる。そして稽古をじっと、ニタニタしながら見ている。暇な方ならいざ知らず、超売れっ子作曲家兼ピアニストなのだから、なんとも愉快で、面白い。中川さんには‘Love Letter’‘WD’‘Birds on Board’‘トウキョウ⇔ブエノスアイレス書簡’、加えて私のライブなんてのもやったがその作曲&ピアノまでやってもらった。なんとも言えず素晴らしく、楽しいライブであった。本人は現代音楽の作曲家であって、CMなどはあくまでも金稼ぎだとは言っているが、メロディメーカーであることだけは間違いない。そして音楽界では浮き上がってしまっているらしい。どうも似たようなポジションに中川さんは立っているらしく、私はやけに親近感を抱く。

 今では、韓国を代表する舞台音楽家となってしまっているキム・テークン。テークンに限らずだが、韓国人の音楽家には実に驚かされた。低音の使い方である。ズシリと響く。このズシリ感は日本人の音楽家にはないものだし、同時に韓国作曲家に共通する。このズシリの中で、‘Birds on Board’は作られた。‘Birds on Board’という作品を私は世界中に持っていきたかった。自分自身でも好きな作品なのだが、大きすぎるせいもあって、動きが出てこなかった。韓国での反応は凄かった。一方、日本では実に冷ややかだった。これが印象に残っている。

 セイゲンとは一回だけ、‘青い頭の雄牛’で一緒した。そのときはセイゲンは作曲&ギター奏者として舞台にも出た。彼はサウンドエンジニアとしてつとに有名だが、曲はとにかくリリカル。すてきな曲を書く。そして作曲は早い。話をしている現場でこんなのどう?と、次々と出てくる。中川さんもカール・ストーンもそうだった。そうか、こうでないとやはり作曲を金にしていくのはつらいのかなあ、と思った。

 アメリカのエージェントであるキャシーからの紹介で、‘Heart of Gold-百年の孤独’の音楽を担当したのがポール・ドレッシャー。その作品はアメリカツアーを前提に作られたのだったが、これまた作品は重すぎた。つまり、金がかかりすぎて、とても簡単には持っていけるものではなくなってしまったということである。ああ、残念。そもそも‘百年の孤独’という小説があったからこそ、パパ・タラフマラは生まれたのである。
 世界的に、ということであるならば、ポールが一番、有名かもしれない。キャシーがそのとき出してきた作曲家候補が数名いてポールはその中のひとりだったが、ポールの音楽が私に向かって飛び込んできた。確かに有名なのだが、有名無名はまあ、どうでも良い。ただ、いつも思うこととしては、有名と無名、いやさほど知名度が高くないということの差はどこから来るのだろうということで、ハッキリしているのは有名な人ほど、腰が低く、時間を守り、すべてに丁寧であるなあ、とは思うのである。高飛車に出ることもないし、ポールくらいのキャリアになったら、少しは偉そうでも良いかなと思うけれど、実に紳士なのだ。もちろん皆さん、実力はあるが、この世の中は、アーティストと言えども、実力以上にそうした社会性が作り出すのだなあと思うのである。ポピュラー人気を得ている人は別である。大衆が味方が付くから、そうでなくてもやっていけるのである。
 ポールは作曲も素晴らしいが、彼のギターはもう、たまんなく良い。泣きのギターはたまらない魅力を放つ。‘Heart of Gold’の時は、残念なことに、資金不足ゆえに彼に来日は果たせなかった。このときは完全にインターネットでの音楽のやり取りのみで進み、非常にやっかいではあったが、ホントに良い音楽になった。公演が終わってからもネットでしかやり取りはできなかったが、強く作品を気に入ってくれたようで、いつかまたやりたいという話が進み、実は来年の‘Between the TIMES’ではポールと再度、行う予定になっていた。それができなくなるのは残念!まあ、でも‘Between the TIMES’はいつかやろうと思っているので、必ず浮上させよう。

 カール・ストーン。カールおじさんは実は1988年からのパパ・タラフマラのファンだと公言している。1988年にバウスシアターで行った‘海の動物園’を見ていたようである。このときはピアニストの高橋アキに連れられて来た、と言っていた。これ、最近知らされた事実で、オッと、あの作品を高橋アキさんが見てくれたのだと思うとなんとなく感激したのだった。知ったのが23年後になるのだけれど。カールとは‘ストリートオブクロコダイル氈fと‘ストリートオブクロコダイル’に加わってもらった。「私は作曲家ではなく、サンプリングアーティストでーす」と明確なスタンスを取るため、歌パートが困った。歌は作れません、と言ってくる。だから、歌パートは私と関口満紀枝の作曲だるであ。ただ、歌パート以外はとても楽しい仕事だった。カールの音は乾いているが、叙情に溢れる。乾いた叙情というのは、実は後を引く。先日、一緒に飲んだが、相変わらず良いヤツだった。今は日本とアメリカを行ったり来たりして過ごしている。また、カールとは一緒にやりたい。

 ‘三人姉妹’と‘ガリバー&スウィフト’の音楽家、松本淳一は、面倒くさい。エロいのはイヤだとか、アアンはイヤだとか、恰好良い音楽をやりたいとか、ああでもないこうでもないと言う。まあ、もともとは彼の音楽は実にスウィート。だから、最初、どうかなあ、無理だろうなあと思っていた。だが、よくよく彼の音楽を聴いてみると、そういう甘さではないところに良さがあると感じた。つまり、彼が欲しているのとはまったく対局にある部分である。だから、それらを掘り出して、この両作品はできた。まったくその甘さを排除し、恰好良いだけではない、妙な間とずれ込みとを活かした音づくりをしてもらって、成功したと思っている。しかし、相変わらず‘甘い’音が好きだし、エロは自分には向いてはいないとか言っている。どうも自分の事を分かっていないようだ。

 藤井健介音楽もまた、最初、聴かされたときはまったくピンと来なかった。だが、2週間くらいしてから、聴き直すと、あれ?と思った。最初聴いたときは感じられなかった幅を感じたのだった。はじめは音として参加してもらった。音楽というより、音だ。だが、次第に音含めての音楽へと変わっていった。彼にしても私の求めている音が次第にわかっていったようである。こうなってくると、あとは思考を深めていけば良いだけなので、難しくはない。今、一番、作品づくりの多くに参加してくれている。最初は思わなかった器用さがだんだん出てきた。と同時に、悩みも出てきているようである。それはクリッシェだ。だが、常に作品を作り続ければ出てくる問題で、私にしても、いかに自身を壊すかがテーマになる。まだ若い。だから、期待大である。

 ジョコ・ポロンは‘ガリババの不思議な世界’というインドネシア制作の作品での音楽家である。面白かった。彼はインドネシア、ジャワ島はソロのアーティストで、非常に熱心。このときは何人かの音楽候補者がいたが、彼がもっともフレキシビリティを感じさせてくれたので、彼にした。結果は大正解。僕自身の細かな要求、面倒な要求にこと細かく応えてくれたし、インドネシア音楽の精髄にも触れることができたように私自身は思っている。

 ‘Swift Sweets’の作曲家はチョー・ウゾンさんだ。彼は完璧な韓国エリートだ。ソウル大学の作曲科からザルツブルグ音楽院に行き、パリの国立音楽院にいて、ソウル大学の先生になったというのだから経歴は華々しい。しかし、そんな経歴など実はどうでもいいのである。経歴で仕事をするわけではない。が、ただ、この経歴の人にしては実にフレキシブルで面白かった。私は彼からは‘先生’と呼ばれて、なんとも面はゆい面があったけれど、そんなことよりも、もの作りの精神というか、非常に重要な部分を残しているのがとても嬉しかった。彼はよく、演技、舞踊、音楽・・・これらを等価に教えられる場があれば良い、将来はそういう場を作りたいと言った。ソウル大学はきわめて保守的で難しいが、何とかしたい・・・と。さて、どうなるだろう。楽しみではある。

 こういう作曲家たち以外にも多くの音楽家とつき合ってきた。パパ・タラフマラ以外の仕事では山下洋輔、大友良英、渡辺香津美、巻上公一、中村明一・・・まだまだたくさんいる。

 音楽家に限らないが、フレキシブルなアーティストと仕事をするときほど、精神衛生上良いものはない。アグレッシブに、前のめりに、丁々発止に動きを作るときほど楽しい気分になって、場は盛り上がるからだ。それには当然、それだけの力量がなくてはそうはならない。いちいち止まってしまったのでは作品づくりどころではない。だから、そうしたアーティストかどうかを見極めることが非常に重要になってくる。精神的タフさがないと面白くない。ガンガンにやり合える精神の強さと柔らかさこそが、場をもっとも良い状態にしていくものである。
 そういう意味でも、私はとても恵まれていたと思う。楽しい時間を過ごしてきた。さて、これから私はどうしていこうか。

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パパ・タラフマラ舞台写真より。

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パパ・タラフマラ 舞台写真シリーズ
 Heart of GOLD〜百年の孤独〜


Photo:Hiroshi KOIKE
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パパ・タラフマラ ファイナル美術館

 流山市生涯学習センターにて、現在、過去公演の舞台美術展示を行なっています。本日が最終日。
 「 青」、「SHIP IN A VIEW」、「WD」、「Birds on Board」、「Heart of GOLD〜百年の孤独〜」、「シンデレラ」、「ガリバー&スウィフト」、「白雪姫」、「パンクドンキホーテ」などの公演で使用された貴重なオブジェや衣装、仮面などが展示されています。ギャラリーに一歩足を踏み入れると、そこは、まったくの異空間。パパタラワールドが展開されています。
  本日18時まで。まだ間に合います!

【パパ・タラフマラ ファイナル美術館】
日時:7月30日(土)〜8月10日(水)10:00~18:00
会場:流山市生涯学習センター 第一・第二ギャラリー
 

























(Photo:編集部)
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小池博史への質問コーナー

Q:作品を創作するインスピレーションはどこから生まれてくるのでしょうか?(みっちゃん 29才 女性)

Aフウム。これはあまり考えたことがないので、いまいちよく分からないのです。というのは、創作のアイデアはどこにでも転がっているわけですよ。いわゆるスランプというのに陥ったこともない。さらに言えばスランプに陥ること自体、どうも理解できない。なぜなら、素材、アイデアはどこにでもあり、どういう視点でも切り取れると考えているからなのですね。対象物に対して、どうやって向かえばいいか?そこしかありません。連想ゲームでも良いわけです。

 例えば、よくやっている「三人姉妹」という作品。チェーホフの‘三人姉妹’をモスクワ芸術座で見た⇒面白いが、古色蒼然としている⇒新しい日本人にしかできないものをやってやろう⇒貴族政治の終わりの混沌⇒日本の私が故郷の話に置き換える⇒三人の身体に焦点を当てる⇒三人のみしか登場させない⇒金がないから、自分でオブジェ等は作り上げよう⇒金がないから若い音楽家を登用してみよう⇒ことばを使わなければどうなるか?⇒動きのみに焦点を当てる⇒フラストレーションと希望に焦点を当てる⇒金がないから、自分のところのスタジオで公演をしてみよう・・・・・・・・

 こうやってできていくわけです。資金面の不足も全部、考慮に入れつつ、なにが可能かを探っていくのです。観たもの、聞いたこと、外的条件・・・・さまざまな条件を考慮に入れつつ、作品としてのクオリティの上げ方を考えていく。作品創作のインスピレーションとは実は、結局は自身との戦いでしかありません。(小池博史)



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質問送付先:
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※メールマガジンに掲載される可能性があることをご了承いただいたうえで、お送りください。事前に掲載の連絡はいたしません。

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発行・H island編集 大久保有花